あゝミゼラブル

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大嫌いな根性論が巡り巡って自分にきた話

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 思春期に経験した出来事というのはその人の今後の人生を決めるのに充分なほど影響力がある。中学時代、剣道部に所属していた私は教師に嫌と言うほど根性論を説かれた。試合で勝てないと必ず言われたのが「根性(気持ち)が足りない」という台詞である。そこに技術的なアドバイスや理論的な説明は一切なく、根性論に絡めた私生活や学校生活での姿勢をただ指摘されるばかりだった。「なぜ勝てないと思う?授業で率先して手を挙げないからだ」そんなアドバイスを100回聞いたからといって試合に勝てるわけでもなく、部活に関しては苦い思い出しかない。

 

 わたしはゲームを通じ「何かを上手くなろうとするならどんなものにも理論的な上達法がある」と知った。それを知ってから部活を思い返すと、もう少し具体的なアドバイスがあってもよかったのではと思うが、未熟な15歳はただただふて腐れた顔をするのがささいな反抗だった。精神的な側面が試合の行動につながってくるということは今ならわかる。そもそも剣道というのは勝ち負けを競うスポーツではなく、精神を鍛練する己との戦い、武道だからと言われればそれまでだが、勝てなくて怒るなら勝てるようなアドバイスをしてくれよというのが本音。それ以来根性論的なのが苦手だ。物事の上達にはかならず理論があると信じている。

 

 さて、そんな苦い経験から根性論を避けてきたわけだけど、最近どうにもこれに立ち向かわなければならないのではと思うことがある。ブログのことだったり私生活だったり、生きていれば悩みは尽きない。また、以前にはこのブログで“人生はコンプレックスを克服したものが勝つ”と銘打った記事も書いている。何回でもいうけど自身の成長において避けて通れないのが「自分と向き合うこと」なのだがこれがすごくつらい。自分の欠点や過去のトラウマに正面から向き合って、できない自分を受け入れなきゃならない。これはつらい。慈悲のカケラもない。辛い思いをして向き合うくらいなら、自分ではどうにもならない大きな問題を嘆いていたほうがマシであるくらいだ。そして自分と向き合うということに関して理論的な要素はない。表面的な行動論はあれど、最終的にそれを実行するには本人の気力、根性しかない。そう、あれだけ避けてきた根性論が巡り巡ってきたのだ。あゝ無情。

 

 不快なものを排除しようとするあまり、結果的に不快なものに囲まれる経験はないだろうか。例えばあなたに嫌いな上司がいたとして顔もみたくないとする。顔をみたくないあまり上司の行動に注意して自分も行動するけど、それって結果的に必要以上に上司のことを考えて動いているはめになる。わたしはこのジレンマに何か大きな事柄が隠されているかのように感じる。どんなに過去のコンプレックスから逃げ切ったとしても、克服しない限りいつか必ず巡り巡ってくる。その度に克服するか、さらに逃げるか、抱えたコンプレックスの数だけ選択を迫られるのだ。